『行ってきます。』
まだ寝ている妻と幼い娘に小さく声をかける。
日曜日の朝6時。
部活の大会の日の教師の朝は早い。
まだ空が暗いぶん,いちだんと吐く息が白く見える。
凍結した車のフロントガラスをペットボトルに入れた湯で溶かしながら,ニット帽を深くかぶり直す。
今日は隣の市で大会がある。
大手テニス用具メーカー後援の大会だ。
車を走らせ,高速道路に乗る。
隣の市まで片道600円。
ETCの割引率が低くなったのが地味に痛い。
7時過ぎに試合会場に到着。
すでに会場には何人もの教師たちがいる。
『おはようございます。南山中学校の宮原です。』
同じ市の教師に声をかける。
大会は練習試合の約束を取りつけるチャンスなのだ。
強いチームでない限り,大会などで人脈をつくっていかねば練習試合も組むことができない。
午前8時。
保護者の車に乗った生徒たちが到着したようだ。
部長がこっちに走ってくる。
『宮原先生おはようございます!集合かけますか?』
『おはよう。うん,よろしく。』
『南中テニス部 集合~!!!』
集まった部員たちに大会の注意事項を伝える。
『最初はリーグ戦だね。5ゲームマッチ。若番の学校が審判台から見て右側ね。オッケー?』
『はい!!』
『1年生,今日の君たちの役割は?』
『大きな声で応援です!!』
『うん!素晴らしい。』
南山中学校に赴任した初日,校長から『宮原先生はテニス部の顧問ね。』と言われた。
テニスの経験はない。
せめて少しでも指導できるようにと,自腹で教則本やDVDを買って勉強した。
専門的な技術指導ができない顧問に,生徒たちはよくついてきてくれていると思う。
午後1時,リーグ戦が終わった。
3校リーグで1勝1敗。2位トーナメントに出場だ。
『宮原先生,あたたかいコーヒーどうぞ。』
『わぁ。ありがとうございます。』
保護者からの差し入れがありがたい。
『声も出ていたし良い試合でしたね。先生の指導のおかげですね。最後のボレーは惜しかった!』
『ありがとうございます。ストレート読みは当たっていたんですけどね。残念。』
ありがたいことに,テニスの指導が未熟な顧問でも,こうして部活の保護者はいつも感謝をもって接してくれる。
…いや。
正確に言えば…。
引率に来てくれるような「協力的な保護者」は,感謝をもって接してくれる…だ。
かつて別の保護者に言われた理不尽なクレームが脳裏によぎる。
午後4時。
トーナメント戦も3戦目。
チームはなんとかまだ勝ち残っている。
生徒のボールを打つ音。冬の乾いた空気によく響く。
冬のテニスの大会の監督は過酷だ。
靴下用のカイロを貼っているのに,足の指先は冷え切ってしまい感覚が鈍い。
この寒空の下,選手の生徒も応援の生徒もよく声を出して頑張っている。
生徒が頑張っているのだから教師も頑張らねばと思う。
ボールがネットに引っかかる。
1セット取られたようだ。
『お願いします!!』
生徒がアドバイスを求めにくる。
『前衛の活躍がなくて残念だなぁ。なぜボールに触ることができなかったんだろう?』
『相手が高いボールばかり打ってきます。』
『じゃあ,どうすれば前衛として活躍できると思う?』
『ネットから離れてスマッシュします。』
『よし。次のセット,それをやっておいで。失敗してもいいから。』
『失礼します!!』
今のアドバイス。
本当にあれで適切だったのだろうか。
本当に正しかったのだろうか。
うん。きっと正しい。間違ってない。
…多分。
午後6時半。
テニスコートの最後の照明が消えて,もうすっかり真っ暗だ。
生徒たちには明日からの学校生活に備え,しっかりと休むようにと指示をして別れた。
生徒の乗った最後の車が帰路についたことを確認し,自分の車に乗り込む。
午後8時。
ETCのゲートを通過する。
600円の表示。
数学の教師の癖なのだろうか。
一日中寒空の下で部活の指導をして疲れていても,数字を見るとすぐに脳が計算を始める。
休日の部活指導が3000円。
高速代,ガソリン代で「自腹」が約2000円。
時給に換算すると1000円÷11時間…
…やめよう。余計に疲れる。
教育はお金ではないのだから。
そう。お金じゃない。「生徒のため」なのだから。
頭に浮かぶ数式を思考から追い払い,帰宅してからのことを考える。
授業の準備を家でして…。
学級通信も出さなくちゃな。テニスノートも見ないと。
明日は月曜。
日曜に新たな疲労を背負ったまま,新しい一週間が始まる。
帰りつくのは8時過ぎか。
…もう娘は寝た頃かな。
(text:
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